世界一正しいコーヒーの淹れ方

コーヒーを飲みながら、こう考えた。

なぜ、こんなにも息苦しい世の中に、なってしまったのだろうか。

インターネットが始まった頃、社会は、だれもが自由に発言する機会が与えられ、

闊達な議論を交わし、自立した精神が通い合う、そんな場所になる、はずだった。

ところが、どうだ。

間違ったことは、すぐに訂正され、より正確さが問われる。

言語はより制限され、あたかも正解が一つしかないように振る舞われている。

同調の圧力はいよいよ増し、はみ出し者は沈黙をつらぬく。

残された者は、正論をふりかざすか、論点をずらした第三の意見をひねりだすしかない。

そうでもしなければ、あふれた情報は精査されることなく、間違いは野放しのまま。

ひとつの情報では信じることができず、検索してぐるぐる回れば、何度も同じページにつきあたり、それ以上の情報は、ぱったりと途絶える。

誰かの意見に正面からぶつかれば、私の言葉は、誰かを傷つけるかも知れないし、一つの意見は、ひとつの意見を否定することにもなる。私は、誰にも否定されたくはないし、誰も否定したくはない。黙りこむことで、自らの保身をはかり、縮こまることで、平穏と安寧と退屈な日々を守っているのかもしれない。

これが、正しい生き方なのだろうか。誇れる、正しい行為なのだろうか。

私は、私の飲むコーヒーの一杯にさえ、疑問を持つようになった。

そして、ふたたび、こうしてキーボードをたたき始めたのだ。


愛知県漂流

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